あわいを編む|No. 1
生物多様性保全を、善意だけに頼らないために
自然を守る現場では、本来は専門業務として位置づけられ、対価が支払われるべき仕事が、しばしば無償の協力によって補われています。地域の生き物を調査する。種を正確に同定し、分析・記録する。標本や過去の記録を整理する。生息地の変化を監視する。いずれも生物多様性を守るために欠かせませんが、その成果を必要とする主体が、費用を負担するとは限りません。
必要性が理解されていても、予算や担当者が確保されないまま、現場の作業だけが残されることがあります。その空白を埋めてきたのが、研究者、地域の専門家、博物館関係者、民間団体、市民などの善意と献身です。長期的な調査や資料の保存ほど、成果がすぐに現れにくく、特定の個人や組織の責任感に委ねられがちです。
私自身、生物調査や博物館、地域の自然に関わるなかで、本来は専門的な仕事として扱われるべき作業が、勤務時間外の活動や個人の持ち出しによって支えられる場面を見てきました。自発的に自然へ関わることは、保全を支える大切な力です。しかし、善意は活動の動機にはなっても、社会基盤を維持するための安定した財源にはなりません。
社会全体が受ける恩恵と、現場に偏る負担
私たちの暮らしは、食料や水の供給、気候の調整、災害の緩和、文化や景観など、自然からさまざまな恩恵を受けています。生物多様性は、自然が好きな人だけの関心事ではなく、社会と経済が成り立つための基盤です。昆明・モントリオール生物多様性枠組も、生物多様性を人々の幸福、健全な地球、経済的繁栄の基礎として位置づけています。
ところが、その基盤を維持するための調査や管理の費用は、社会全体で十分に分担されていません。自然から得られる恩恵は広く行き渡る一方、保全に必要な費用と労力は、現場に近い一部の人や組織へ集中しています。これは個々の担い手の努力だけでは解決できない、費用負担の構造に関わる問題です。
同枠組は、世界全体で年間7,000億米ドルに及ぶ生物多様性資金ギャップを、2030年までに段階的に縮小することを掲げています。必要なのは、保全予算や寄付を増やすことだけではありません。生物多様性に悪影響を与える資金の流れを見直し、公共と民間の双方で、自然を維持・回復する活動に資金が届く仕組みをつくることが求められています。
取組の進展と、回復までの距離
日本では、1995年に最初の生物多様性国家戦略が策定され、その後も改定が重ねられてきました。2010年には名古屋で開催された生物多様性条約第10回締約国会議で愛知目標が採択され、2023年には生物多様性国家戦略2023-2030が閣議決定されています。各地でも、行政、研究機関、市民団体などによる取組が続けられてきました。
こうした政策や活動には、一定の成果も見られます。環境省の生物多様性及び生態系サービスの総合評価2021(JBO3)では、これまでの取組によって、生物多様性の損失速度には緩和傾向が見られるとされました。一方、日本の生物多様性はまだ回復軌道に乗っておらず、生態系サービスも劣化傾向にあると評価されています。
2026年に公表された国家戦略の中間評価でも、日本の生物多様性は全体として損失し続け、生態系サービスも回復には至っていないとされました。40の国別目標のうち、目標達成に向けて順調と評価されたものは8つです。取組の効果が現れるまでに時間を要することに加え、行動の規模が自然の状態を変えるには十分でない可能性も指摘されています。
資金・専門知・参加をつなぐ
現場では、多くの人が調査や保全を続けています。それでも損失傾向が続いているという事実は、個々の努力を否定するものではなく、現在の取組を社会全体の規模へ広げる必要があることを示しています。
取組を社会全体へ広げるうえで、資金不足は最も大きな制約の一つです。調査を続け、生息地を管理し、標本や記録を保存し、専門家を育てるには、人が働き続けられるだけの資金が必要です。自然を守る仕事へ正当な対価が支払われ、行政だけでなく、自然の恩恵を受ける企業や生活者も費用と責任を分かち合う仕組みが求められます。
ただし、資金を増やせば、自動的に自然が回復するわけではありません。地域の自然を正確に評価できる専門家がいなければ、何を守るべきか判断できません。その知識が行政や企業、地域の意思決定へ届かなければ、適切な対策にも結びつきません。資金、専門知、意思決定をつなぐ回路が必要です。
さらに、生物多様性を専門とする人を増やすだけでなく、異なる分野の人が、それぞれの立場から保全に関われる仕組みも欠かせません。農林水産業や観光業に限らず、教育、法律、金融、情報技術、福祉、まちづくりなど、様々な分野にも自然との接点があります。すべての人が専門家になる必要はありませんが、自分の仕事や暮らしとの関係を知り、参加できる入口は必要です。
善意を支える仕組みづくりに向けて
自然を守る責任を、一部の専門家や市民の献身だけに預け続けることはできません。専門家の仕事が正当に評価され、必要な場所へ継続的に資金が届き、異なる分野の人がそれぞれの立場から関われることが重要です。そのうえで、投入した資金や労力が、本当に自然の回復へつながっているかを検証できなければなりません。
ネイチャーポジティブを実現するには、個々の善意に依存するのではなく、その意思や活動を無理なく支えられる仕組みへ変えていく必要があります。自然と経済、専門知と意思決定、保全の現場と日々の暮らしをつなぎ、社会全体で支える範囲を広げていくこと。それが、生物多様性の損失を止め、回復へ転じさせるための条件だと考えています。
この大きな課題に対して、BioTaxaNは民間の立場からできる実践を積み重ねていきます。専門知と社会の間に接点をつくり、これまで生物多様性と接点を持たなかった人が関われる入口を少しずつ増やしていくことが目標です。「あわいを編む」では、生物多様性を取り巻く社会の仕組みや、現場で起きていること、簡単には答えの出ない課題を考えるきっかけを届けていきます。
